内なる水、2012年
安部典子
シラキュース大学 ウェアハウスギャラリー
2012年3月1日ー5月12日
自然は我々の想像を遥かに超える美しさを見せてくれる一方、強靭さをもって、時に我々にその恐怖を思い起こさせる。
2011年3月11日、東日本大震災。それに伴う津波により、国土の1/4が被害に合い、2万人もの人命が奪われ、福島第一原子力発電所の崩壊事故が起きてから、丁度1年が経つ。これらの被害は完全に我々の価値観を変えてしまった。
以来、アートがどのようにこれらの残酷な現実に取り組めるのかを考えて来た。それはまた、私がここ10年以上かけて取り組んで来た、”フラットグローブ””空の大地”といった、自然と人間の存在の関わりを、時間の重なりとシンクロさせて表現していくことを、もう一度見つめ直す機会ともなり、展覧会の趣旨も自ずと変わっていった。
夏の帰国時に、被災地の陸前高田へ、また、ニューヨークに戻ってからロングアイランドの海を訪れた。
陸前高田にて、瓦礫が排除された低地に立ち、灰色の地を見渡す。言葉が出ない。後ろを振り返ると、低地を囲うように木立の丘が続いている。そして目を見張ったのは木々の色の違いである。津波が押し寄せた位置までが横にずっとラインを引いたように茶色く枯れている。緑と茶色。そこまで海水が来た事が記録され、この低地がすべて海底に沈んだことが分かる。まるで水が見えるかのごとき生々しさが、目に焼き付いた。
その後アメリカに戻り、ロングアイランドのビーチに行く。大勢の人で賑わうビーチの先のこの海も、あの海と繋がっているのか?と。遥か離れた地から、ここしか日本と繋がりがないような。故郷を後にしてしまったような後ろめたさを抱えながら、寄せては返す波の狭間に心を仕舞い込むように、海との対話は続いた。同行した日本人の友人も、じっと黙って海を見つめていた。
自然の海の中では、人間(人体)は息をすることすら出来なく、すぐに死んでしまう対極の存在のようだ。しかし、それでも、その先のさらに奥に在るもの思いを馳せると、我々の中に眠る深い無意識の領域のようなところをイメージするかように、海はそうした存在とシンクロしているかのように、我々にその記憶を想起させ得るのではないか。
繰り返される波はまるで、このような思考のリピートを肯定してくれるかのようだ。今現時点において表現され得るものを追随して行きたい。
インスタレーションでは、室内に散らばって配置された、個々の重なった紙の作品に繰り返される波と時間を、また同じ高さで柱と壁の色を変え、浮遊する空間を水に見立てた。また波を撮影した600枚の写真を、アニメーションのように空間のスクリーンに投影させた。時間がインスタレーションの中で刻々と刻まれるかのように。
隣室の小部屋に配置させた2点は、そのまま地下に通じる排水溝のようでもあり、もう一点は、氷のようなアクリル樹脂の中に、”PEOPLE”という本の作品が浮かんでいる。